心の病になる方は、近年多くなっていると言われています。
医療は日進月歩していると言われています。
しかし、心の病にかかる人は減っているようには感じていません。
いまの治療方法は、本当にこれでいいんでしょうか?
良くなって治っているのでしょうか?
今回は、心のリハビリに関して、いろいろと考えてみたいと思います。
精神科の現状
ちょっと前まで精神科の医療は、病院に閉じ込め、拘束していた隔離政策を行っていました。
そこから考えると、別世界のような変化だと思います。
医療や福祉、社会情勢など色々なものが様変わりし、当事者の暮らしも随分と変化しました。
地域で生活出来るような枠組みや支援が進み、地域で生活している人は本当に多くなりました。また就職して働いている人も少なくないです。
普通に地域で暮らし、仕事をし、結婚して、子育てしたりと、当たり前のように生活が出来ている人も多く居ます。
就労支援や地域支援、福祉制度などは飛躍的に改善し、差別や偏見も少なくなり、心の病に対する理解が浸透しつつあります。
医療の方も、早めに受診をする人が増え、重篤化しないことと、薬の改善により、副作用が少なく適度に効果が出るようになり、更なる社会への躍進につながっていることは間違いないと思います。
本当に、躍進的に環境や制度が充実し、薬物療法の効果も改善し更なる、円滑な循環や、早期に社会参加となり、痛みが少なく復帰できるような環境になったと思います。
当事者の生活について
しかし、その変化に取り残されたように、心のケアが不十分のまま経過しているのではないかと考えます。
実際地域で生活している人は、早期復帰したから社会に参加したからと言って十分に充実した生活が送られているのでしょうか?
健常者と同じように、人を愛し、育み、労り、自己を鍛錬し、余暇を楽しみ、充足した生活を行っているのでしょうか?
当事者の生活は、地域で暮らし、働き、家族を築き、生活をしている人は健常者の様に振舞えるわけではなく、苦悩しながら、自分の生活方法を試行錯誤しつつ、見つけ出し、試み、確かめ、一つ一つを守って生活しています。
どこかに制約があり、自分の中で折り合いをつけたり、抑制したりしてバランスを常に取り、意識して制御して日々を暮らしています。
健常者では何気なくできることが難しいのが当事者です。
難しいのひとはひとによりさまざまですが、
例えば、
- 電車には乗れないのでバスで移動したり
- 特定の場所が駄目なので迂回したり
- まじないのような同じ行動をしないと駄目と関連付け
- 固定概念としている人は、儀式のための時間を設けたり
- 調子を整えるために、同じ生活を毎日繰り返したりしています。
それぞれが必死で社会と対峙し自分に照らし合わせて自分の生活を確立できるように確かめ守りながら、生活を営んでいるのです。
日々暮らすことに対して、犠牲や制約を設けないと成立しないというのは、どうなんでしょうか?
確かに、自分の障害や症状に対して、自分の難しいところに対して、制約や対処を設けることで生活が営むことが可能になっていることは、大きな成果と言える。
それを獲得するためには大きな労力と時間を費やし、自己と向き合ったことによる、その人の努力と適度な支援があったから成し得たことと思います。
治療に関して考えてみる
しかし、治療には、予防と対処という概念の上に、寛解という概念もあります。
上手に対処し予防し、病気に振り回されず、生活を営む上で多少の制約はあったとしても犠牲ではなく、生活を営むコツのような形で日常生活を暮らせることができることを寛解と言います。
根本的治療方法の確立を考えないといけない時期なのではないでしょうか?
その寛解を目指すことは、不可能なのでしょうか?
制度や薬が躍進的進歩を遂げているのに、
精神治療の根本的な完治を目指さなくていいのだろうか。
予防や対処で満足していいのだろうか?
そして、それすらも、満足できていないのに、対処が出来たらいいとか、予防が出来たからいいとか、一部だけ行えば医療という所が精神科には蔓延していないだろうか?
目に見えず、把握することが出来にくいからと、放置でいいのだろうか、
枠組みが曖昧だからと、曖昧のままでいいのだろうか。
現代医療は医師の理解や発展の上に成り立ち、リハビリ概念が理解しにくいのではないだろうか。
医師が思うリハビリと医療者が思うリハビリの違いがあるのでないだろうか。
リハビリに対しての危機意識がとても違うのではないだろうか
根本的な治療方法を確立するためにはリハビリの存在が欠かせないと思う。
そして、そのリハビリがとても難しいことも重々、痛いほど理解している。
同職種の中にも大きく違う。そして、職種や立場によっても違う。
目に見えない分、それぞれの価値観や生活感が大きくリハビリの概念に影響する。
むずかしい。
苦悩します。
しかし、だからこそ、理解促進のために、切磋琢磨することが、
関わるものとして、仕事を請け負う人として必要だと思います。

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